選手名カタカナ表記審議会の歴史

承前。

www.footballista.jp

 

 

f:id:sakekovic_14:20220910075426j:image

 

 

古代。そこには混沌があった。

山々は火を噴き、恐竜たちが原野を闊歩し、アクセンチュアは世界選抜vs日韓選抜なる謎の親善試合をスポンサードしていた。

youtu.be

 

その頃海外サッカー同好の士が集っていたのが、最大手のウイニングイレブンファンサイト、WE HOLICであった。人々は日韓W杯で日本と戦うロシアのエース、Yegor Titovをどう表記すべきかについて、果てなき論争を繰り広げていた。「チトフ」「いや、ティトフ」「ていうか、イェゴールだよね(笑)」「いや、イ”ー”ゴリと聞きましたよ?」。それはさながら、己の排泄物を投げ合う類人猿であった。

 

やがてその中にも、モノリスに触れて知恵を持つものが現れた。彼らは言った―「カタカナ表記で外国語を正確に表すのは無理であり、伝わりすれば何でもよいのである」。ある意味では正論ではあり、糞の雪合戦は一定の鎮静を見たが、これもまた不完全な答えに過ぎず、むしろ問題を「正しさ」の土俵に持ち込んでいるという意味では議論を後退させていると言えなくもなかった。

 

より生産的に、より気持ち悪さを感じないように、カタカナ表記で遊びたい。人々のさして切ならざる願いから、「現地語の発音をなるべく尊重したもの」「一般に膾炙した日本語表記に一定の配慮を払ったもの」「日本語としての社会的風俗に配慮したもの」の3つを原則として、ここ、麻布十番の雑居ビルにおいて、選手名カタカナ表記審議会は生まれたのであった。その2年後には英国支部が開設され、バウンダリ・ロードのイタリア料理店「モルソ」の二階に本拠を構えた。

 

 

早すぎたドゥサイイ革命

マルセル・デサイーであった。彼の名は。

Embed from Getty Images

 

CL制覇2回、W杯制覇1回。歴史にその名を残すCBであるが、完全に定着しつつあったその表記に真っ向から挑戦状を叩きつけたのが、当時ワールドサッカーダイジェスト、ワールドサッカーグラフィックとともに一時代を築いたサッカー誌、ワールドサッカーマガジン(WSM)であった。

 

WSMは書いた。「ドゥサイイー」と。ドゥ・サ・イ・イー。イが2回でしかも伸ばす。あまりにも素っ頓狂すぎ、当時のサッカーキッズたちは困惑するばかりであった。デサイーだけではない。「ネドビェド(ネドベド)」「シフィエチェフスキ(スビエルチェウスキ)」「バウデベイン(ボウデヴィン)・ゼンデン」と、WSMの挑戦は留まるところを知らなかった。今となっては、WSMは自らの原則―より現地語発音に近いカタカナ表記を追求する―にストイックであったことが分かっているが、2000年代前半の日本のサッカーファンの多くにとって、そのスピードについていくことは困難であった。

 

2008年、ライターユニット・いとうやまね氏の国歌連載を後世に残し、WSMはその歴史的役割を終えたのであった。2022年の今「デサイー」を採るものは、その原則に沿う限り、マンチェスターUからマルセイユに移籍したコートジボワール人DFのことを「エリック・バイー」と表記するのか否か、というジレンマに苦しめられている。「ミニモニ。ジャンケンぴょん!」の効果音っぽくなるためである。

Embed from Getty Images

 

 

WSGの乱

海外サッカー誌3強の一角であり、最大のイロモノ。それがワールドサッカーグラフィック、通称WSGであった。WSGは様々な面で競合誌と差別化を図った―カートゥーンの多用、Jリーグとの接点の掘り起こし(『菊とフットボーラー』)、インターネットのいち早い活用。しかし彼らはカタカナ表記でも差別化を図るという暴挙に出たのである。まず「v」は全部「ヴ」。基本的にはvとbが同じ音のスペイン語でも「ヴ」。ヴィセンテ、ヴァレロン、ヴァルヴェルデ。カシージャスも「カシーリャス」で、ジダンは「ジダヌ」であった。98年W杯で完全に世界のスーパースターとしてお茶の間に定着したジダンの表記をひっくり返そうというその蛮勇はサッカーファンを戦慄せしめた。

f:id:sakekovic_14:20220910075641j:image

*1

 

そして何より、WSGは原則というものを持たなかった。いや、原則がないことを原則としていたというべきか。WSGにとって、2回めの「v」は「ブ」なのである。よってWSGにとってアタランタを率いていた監督は、「ジョヴァンニ・ヴァバッソーリ」であり、ビエルサ政権のアルゼンチン代表で3バックの右を担ったDFは「ネルソン・ヴィーバス」なのであった。

Embed from Getty Images

 

 

2003年に出版元がビクターエンタテインメントからぴあに移ると、WSGの暴走は更に加速した。「ヨーロピアン・フットボール 選手名鑑」の刊行である。主要国については一部はおろか、二部の全クラブ全選手を網羅するという暴挙。インターネットでもろくに情報が収集できない時代、そして国籍と言語に対するおそらくは多分に無知、あるいは掘り下げるにはあまりにも多忙な編集部事情を反映したと思しき伝説的カタカナ表記が生まれた怪作として、選手名カタカナ表記審議会員からの評価は高い一作である。

honto.jp

 

現代を生きる我々にとって、WSGがどのような考えをもって原則なき原則を貫いていたかを知る術は、もはやない。さらばWSG。時代の徒花として生き、そして散ったWSG。あなたがホルヘ・ミムーラに会うことはもうない。

 

閑話休題

ここで我々は、選手名カタカナ表記審議会のもう一つの原則に触れなければならない。我々は会話における発音を取り扱わない。あくまで表記されたものを問題とするのである。オーラルに発音されるものには個々人の訛り、その場を構成する人々の関係性、雰囲気、その他様々なものが入り混じっており、かつ何よりも、口で言う分にはちょっと「ん・・・?」と思われてもゴリ押しできるのである。我々は表記されたものを扱い、遊ぶ。クチはしない、手だけ。これが選手名カタカナ表記審議会、第4の原則である。

 

 

最強の刺客■■■

選手名カタカナ表記審議会3原則の1つ、「日本語としての社会的風俗に配慮したもの」。これを根本から崩壊せしめんとした最強の刺客こそが、レイモンド・■■■であった。

ja.wikipedia.org

 

あまりにも直球。

佐々木朗希も真っ青の剛速球に対して、サッカー界は様々な対策を講じてきた。米IMGが制作し、かつてNHKBSで放送されていた「世界のサッカー」ことFIFDAフットボール・ムンディアルは、「名字を読まない」という道を選んだ。「レイモンド」と呼び続ける倉敷保雄氏の姿は、さながら放送コードの守護神として多くのサッカーファンの記憶に残っている。

一方Goal.comは「マヌコ」を選んだ。多少無理があろうことは承知の上での力技であった。■■■自身のキャリアがPSV移籍以降は上向かず、国内を転々とすることになったためある種の事なきを得たものの、国際的なスターとなっていた場合に耐えられたかどうかは定かではない。

 

 

 

Embed from Getty Images

ペルーからの暗殺者、レイモンドの脅威をやり過ごすことには成功したカ表審。しかし我々の行く先には、歴史の亡霊ドログバ=バマン問題、通俗との戦争ロシア語問題、そして最大の強敵ラシュフッdが待ち構えている。より面白い選手名カタカナ表記を目指して、選手名カタカナ表記審議会は今日も日陰をひっそりと歩き続けるのだ。

*1:画像提供よーへい氏